くろじいの小屋
COLUMN


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22   声              2004. 8.22
 
 もうすぐ81回目のあの日がやって来る
 
大正12年9月1日 午前11時58分 関東大震災
 
相模湾を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震は、東京に最大振幅20センチという大きな揺れをもたらした
家屋倒壊26万余世帯、焼失44万余世帯、
房総から神奈川へかけての被害も甚大で、津波の高さは熱海で12メートルを記録した。
 
浅草生まれ、浅草育ちの祖母はその時10歳だった
 
出かけている両親の代わりに、昼食の手伝いをしようと台所に立って居た。
祖母の表現によると、グゥオォーという今まで聞いたことの無い地響きと共に、まるで家が木の葉の様に舞い踊ったという、それと同時に屋根が消え去り青空が見えたそうだ。
 
方々で火の手が上がる中、大勢の人が群れを成して隅田川の方へ向かって非難する。
飛び交う怒号の中、仏壇を背負う者、山のような荷物を抱える者、リヤカーに箪笥や布団を載せて引く者、寝たきりの年寄りを背負う者・・・・・
祖母はボケが進んでいるが、ハッキリとその光景を覚えている。
 
どうして良いかわからず、一人で泣き叫びながら、何故かヤカンを持って通りに立ちつくして居たそうだ。
そこへ近所のおじさんが通りかかり「早く一緒に逃げるんだ」と手を引いてくれた。
 
蔵前橋(祖母の記憶)の近くまで来て、「この橋を渡ればもう大丈夫だ」
そうみんなが話してる時、祖母は何処からともなく、しかしとても大きな声でハッキリと呼ばれたという。
 
「つる!(祖母の名)そっちじゃ無い!行くな!戻れ!走るんだ!早くしろ!」
それを聞いた祖母はとても怖くなった。
近所の人達が制止するのを振り切って、一人夢中で逆方向へ走り出した。
人の群れに逆らい、転び、何処をどうやって、どの位の時間走ったのか覚えていない。
そして祖母が一人泣きじゃくりながら辿り着いたのは上野の山だった。
 
今改めて地図で見ると、蔵前橋から上野公園付近まで直線距離で約3q、当時は今ほど道路が整備されてるわけでは無い。その中を迷い、さまよいながら辿り着くには3倍近い距離があったのではないだろうか?
荒れ狂う炎の中、10歳の少女の足にはとても遠く、長い時間だったに違いない。
 
幸いにも、辿り着いた上野の山には知り合いの人達が居た。
死体が山積みにされるその場所で数日を過ごし、無事に親と会える事が出来たのである。
 
「橋を渡った人はみんな死んじゃったよ」
 
祖母がそう知らされたのは更に数日が経ってからだった。
 
橋の向こう・・・それは陸軍被服廠跡
 
記録によれば被服廠跡へ逃げ込んだ約4万人のうち3万8千人が焼死したとある。
関東大震災全体の死者数が14万人と言われているのだから、この場所での惨状がいかに凄まじいものだったのか想像出来る。
原因は火災旋風が起こり、避難の時に持っていた荷物や家財道具に引火した事。
祖母の話だとこの場所の遺体を全部火葬し終えるまで次の年までかかったという。
 
両国国技館からほど近い陸軍被服跡、現在そこは東京都復興記念館となっている。
同じ敷地内にある慰霊塔には、関東大震災や東京大空襲の被害者16万人以上の遺骨が今も静かに安置されている。
 
あの時あの声が祖母を呼び戻さなければ、くろじいも存在しない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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