くろじいの小屋
COLUMN


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42  ガンとの戦い (後編)    2004. 2.22
 数年間、我が家に平穏無事な生活が続いた。
 
しかし本人以外は片時もガンの事を忘れてはいない。
決して父のガンは完治した訳でも、消えて無くなった訳でも無い。
悪性である進行性のガンが、免疫力によって成長を抑え込まれているのである。
ガンと共存してると言った方が良いだろう。
 
横浜のSクリニックへも3ヶ月に一回ほど通院して免疫注射を打ち続けた。
その効果は絶大で、父の症状は安定していた。
自分の病気を血管種だと信じて疑わない本人は元気そのものだ、
古くなったクルマを買い換え、好きな温泉にも行った。
この数年間は、我が家にとってとても思い出の多い時間となった。
 
ある冬の事、父親は顔面神経痛になってしまった。顔半分が引きつってしまい、本人にとってはとても辛かったに違いない。
ただこの症状は時間とともに回復するものであり、長くても半年経てば元に戻るので心配しないようにと医者に言われた。
しかし父親はそれが我慢できなかったのであろう。
家族にも医者にも相談せず、一人で勝手に針治療に行った。
針を顔に打ってマヒの症状は改善されて来た。しかし父親は、家族に黙って致命的な事をしてきていた。後から聞いた話だが「私は肝臓が悪く、血管種が出来ているので肝臓を丈夫にしてほしい」そう言って肝臓周りにも多くの針を打っていた。
 
次のSクリニックの検診で異常は発見された。いままで沈静状態だった肝臓内ののガン細胞が再び活発に活動を開始したのである。形が崩れて小さくなっていたガンが再度勢いを取り戻しつつあった。東洋医学の効果、人間の身体の不思議さを別の意味で実感する事になった。
 
一度勢いを取り戻したガン細胞に、さすがの免疫療法も効かなくなっていた。
 
 
「肝臓ガンで、長くても余命半年、今生きてるのは奇跡みたいなものなんだよ」そう言い聞かせれば良かったと思った。何度もその機会はあったに違いない・・・・・
 
たら、れば、の話である。
本人は悪い方悪い方を選択していたような気がする。
これが人間の運命なんだなぁ、寿命なんだなぁと思う。
日増しに黄疸で顔色が黄色くなり、様態が悪くなっていくのが手に取るようにわかる。
 
Sクリニックの先生曰わく「残念だけどもう手の施しようが無い」
 
母の勤めていたS国際病院へ入院、そこにはホスピスという病棟がある。
最近でこそよく聞くが、当時ホスピスとはまだまだ日本ではなじみが少なかった。
もう助かる見込みのの無い患者に対し、無意味な延命治療は行わず安らかに死を迎えさせる医療、それがホスピスである。
母が勤務していた時の同僚が、そのホスピス病棟の婦長になっていたのは幸いだった。
 
 
「どうしてこの状態で生きていられたのか?とても不思議だ」
S国際病院の医師にそう言わせる程の容態だった。それだけ免疫療法の効果は大きかったのである。
 
しかしどんなに良い方法があろうとも、人間、人生は自分自身で選択して歩んでいるんだと父を見て思った。
「ガンだよ」と告知しておけば・・・・・家族で何度も悩んだ事もあった。
しかし、そうしていたら小心者の父に数年間の楽しい生活が送れていたであろうか?
 
それから父が死を迎えるまでの一ヶ月間。
母が父にしてあげられる事は全てしたと断言できる。
母と俺と弟に見守られて逝った父の死は本当に眠るように安らかだった。
 
 
 
2月20日の朝日新聞に米国で肺ガンのワクチンが開発され、末期のガン患者に対して大きな効果をあげている事が掲載されていた。
今こうしてる間にも、世界中でガンとの戦いは続いている。
 
しかし・・・・・である。
 
 
近い将来もしガンが征圧出来たとしても、人類から全ての病が消え去り、苦しみや死から解放される訳では無い。
 
長く生きる事も大切だけれど「どう生きるか、そしてどう死ぬか」それが本当に大切だと思うのである。


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